|
13
小さな鈴の音が響いた。
銀細工の鈴が立てる澄んだ音色……。幼いころ、俺が持っていた鈴だ。
銀は魔を祓うという迷信があって、それを信じた鴉の親が生まれた子につけたのが始まりだと聞いたことがある。
俺も、持っていた。
そうだ。だから飛んだり、歩いたりすると必ずこの音がして……。
『ネサラ、来い』
懐かしい声が聞こえて目を開くと、ぼんやりと見えた視界が赤い。キルヴァスの夕日の色だった。
俺の身体が勝手に動く。ずいぶんぎこちない動きで起き上がり、伸ばされた腕に手を伸ばした。
しなやかで、逞しい腕。
器用そうな長い指を必死に掴むと、優しく握り返してくれた。
砂が零れるような音を立てて長い黒髪が俺の視界を覆った。
見上げた先に、鴉にしては体格の良い、怜悧な切れ長の目をした男がいる。目には知性を、常に不敵な笑みを浮かべていた唇にはどこか野性味を持っていた。
ああ、そうだ。この人は……。
『とうさま』
舌っ足らずな俺の呼びかけを聞いた瞬間、冷たく見える整い方をした父の顔がとろけそうな笑顔になった。
『そうだ、俺がおまえの父だ。あぁ、クソッ! 俺の女を殺しやがって、お前もくびり殺してやろうと思っていたのに、なんてズルイやつだ!』
言いながら勢い良く俺を持ち上げてぎゅうぎゅうと胸に抱きしめる。
さりげなく凄い事を言われているが、それよりこんなことをされたら本当に死んじまう!
苦しいはずなのに、俺の胸にこみ上げたのは甘ったれた喜びで、胸の中いっぱいに洒落者だった父が使っていた香の匂いを嗅いでいた。
『だが、仕方がねえな。死んでも良いからとお前を産むと決めたのはあいつだ。あいつと同じ髪、同じ匂いのおまえを俺が殺せるわけがない。俺の可愛いネサラ。いいか? どんな宝だっておまえほどの価値はないんだぜ』
父の腕の力が緩んで額に優しい口付けが降りた。
そしてまるで恋人にするように、唇同士が触れ合いそうな距離で俺を見つめながら囁く。
『ネサラ、王はなにか隠している。ガキのころからキルヴァスにはなにかあると思っていたが、どうやらかなりの面倒事みたいだな。だからそれを暴いて、必ず俺が鴉を、おまえを幸せにしてみせる』
心臓が、ひやりと冷えた。
そうだ……ニアルチだけじゃない。
みんな言ってたんだ。
俺の父は、間違いなく鴉王になる器だったと。
強くて、決断力があって、なにより頭が切れた。
だからこそ、父は……。
『見ていろ。キルヴァスの夜は明ける。たとえ太陽がこの不毛の大地を見捨てたとほざいても、この俺がキルヴァスの空に引きずり上げてやる』
だめだ。そんなこと、考えちゃいけない。
そう伝えたいのに、幼い俺の口はちっとも思い通りにならなくて、何一つ伝えられなかった。
母は鴉の中でも鷺の血が強く出たらしい。身体が弱くて、俺を産む時に死んだ。
そして父も――。
ある日、ニアルチが真っ青な顔で飛び込んできたんだ。
俺はなにも知らなかった。本当にガキだったからだと、今は思う。
父の死を知ったのは、無邪気にリュシオンと遊んでいた時だった。
理由を聞かされたのは数年経ってからだ。父が、王に対して謀反を企てたからだと……。
だから、父はもういない。
遺体の確認をしたはずなのに、それも覚えていないから、今でも俺の中ではぽっかりと父の記憶は浮いている有様だった。
本当は、父の顔も、声も忘れかけてた。
それなのに、どうして今はこんなにはっきりと思い出したんだろう。
それから俺のつけていたあの鈴はどこに……。
ぼんやりと考えていると、また遠くで小さな鈴の音がした。
「もう少し眠っていても良いのですよ」
「……宰相…どの……?」
「はい。セフェランで結構です」
目を開けたのは無意識だった。さっきまでほとんど真っ暗だった部屋は急に明るくなっていて、まぶしくて閉じたまぶたに優しく揺れるカーテンの陰が映る。
「悲しい夢を見ましたか?」
「え?」
「泣きそうなお顔に見えましたから」
「人の寝顔を観察するな。意外に悪趣味だな、あんたは」
言われてみれば少し目尻が湿っぽい。慌てて指先で拭って起き上がると、セフェランはあまり心のこもっていない様子で「すみません」と詫びながら俺の背に上着をかけた。
「気分はどうですか?」
「……悪くない」
「それなら良かった。顔色もずいぶん良くなりました」
そう言って微笑んだセフェランから視線を外して、俺は胸の中にたまった空気を抜くように大きな息をついた。
嘘じゃなく、気分はいい。久しぶりに身体が軽く感じるぐらいだ。
しかし、いつの間に俺は寝ちまったんだ? それが思い出せない。
確か、セフェランと話をしていて、「まず眠れ」って指が……。
「お茶をいかがですか?」
「杖を使ったのか?」
立ち上がった背中に問い掛けると、セフェランも俺が訊く言葉の意味を汲んだんだろう。すぐに首を振った。
「いいえ。使っていません」
「……くそ、ティバーンじゃあるまいし、あんなもんにかかることなんかまずなかったのに」
これは嘘じゃない。特に化身すれば、俺の魔法抵抗力はそこらの魔道士じゃ羽の一本も傷つけることができないぐらいには高い。
それがこんなにあっさりと寝かされたってのは、やっぱりこの男の魔力がそれだけ強いってことなんだろうが、面白くはないな。
セフェランはなにも言わずにただ笑ってカップを取ると、ティーポットから不思議な匂いのするお茶を注いだ。
……身体が軽いってことは、化身の力は戻ったのか? 少しだけ怖い気もするが、確認はしなくちゃならない。
そう思って左袖をめくると、俺は王者の腕輪を確かめた。
腕輪の中心にはめられた守護石の色が、内側から深い青に戻っている。腕輪の力は戻ったんだな。
俺の身体は……大丈夫そうだ。
目を閉じて探ると、ずいぶん長い間忘れていたような、あの力がみなぎる感覚が戻っていた。
「どうぞ。砂糖は入れますか?」
「入れなくていい。いただこう」
出されたハーブティは淡い緑で良い匂いのするものだった。ミントと、カモミールと…あとはなんだろう。いろいろとブレンドしてあるようだ。
「……ほっとするな」
「それは良かった。なにか召し上がりませんか? あまり食欲もなかったようですから」
「いや、いい。俺よりもティバーンに訊いてやってくれ。あいつはなんだかいつも腹を空かせてるからな」
真面目に言ったのに、セフェランは一瞬目を丸くしてくすくすと笑いやがった。
なんだ? なにかおかしなことを言ったか?
「あなたにかかっては、あの鳥翼王様も形無しですね。鳥翼王様には先ほどサナキ様がミートパイをお出ししていましたよ。たぶん夕食まではお腹も持つでしょう」
「それなら良かった。……って、あいつは皇帝にまで食い物をねだってるのか?」
「口に出してはいません。ただお腹の方が口よりも素直なだけでしょうね」
「あの筋肉馬鹿……戦士としてそれはどうなんだ?」
その場面を想像してがくりとうなだれると、今度こそセフェランはおかしくてならないように笑い始めた。
笑うと、まるでラフィエルたちといるような錯覚がするな。
似ていて当然か。この男も鷺なんだから。
ハーブティを飲み干していくつもクッションを重ねたヘッドボードに背中を預けると、また鈴の音が聞こえた。
なんだ、夢じゃなかったのか?
「どうしました?」
「鈴の音がする」
近くじゃないな。遠い。
空か?
音の出所を探るように高い天井を見上げると、セフェランが頷いて教えてくれた。
「鴉の方でしょう。荷運びで来られる鴉の方がお守りだと言って銀の鈴を身につけておいででした」
「鴉の? だが、あれは雛のころだけだぞ」
「遠く国を離れる仕事です。ご家族が心配なさったのでしょう。ましてまだラグズとベオクの関係が上手く行くかはわかりませんから」
「……そういうことか」
そう言えば、ダルレカから来た仲買人も腰に子どもに貰った守りを下げていたな。
家族の身を心配することに種族の違いはない。
気持ちだけじゃなくて、お守りと言う「形」が必要なこともある。
俺のお守りは…どこにやったっけな? もうこんなことも思い出せない辺り、俺のキルヴァス王としての生活は本当に追い詰められたものだったらしいな。
ぼんやりとそんなことを考えていると、薄い掛け布団越しに脚を優しく叩かれた。
「なんだ?」
「鴉王様、あなたに見て欲しいものがあります」
「俺に?」
「はい」
そう言って腰を上げたセフェランに倣って寝台から降りると、俺がブーツを取る前に部屋履きを置かれた。
外は絹で、極上の毛皮を内側に貼ったものだ。どちらにするか迷ったが、固いブーツで歩かない方がいいってことかも知れない。
そう思って素直に室内履きに足を入れると、俺は何も言わずに歩き出したセフェランの後を追った。
「暖炉か?」
「ここに仕掛けがあります」
立派な暖炉の上に、ベグニオンの紋章が輝いている。セフェランがそこに手をかざして低く呪文を唱えると、どこかで重いものが動く音がした。
「こちらです」
「……呪文で開くのか」
「はい。高位の司祭クラスでなければ唱えても開くことはありませんが」
「ベグニオンならではだな」
俺の言葉に微笑むと、セフェランは目隠しの布を掛けた棚の中から古いランタンを取り出して書架の前に進んだ。
入っているのは古いものから新しいものまで、今はもういない女神の言葉を綴った聖書や詩集ばかりだ。
本の収集家には垂涎の品もある。ここに住んでいた娘が喜んで読んだものは多くないだろうな。持って帰れないのが残念だ。
「……奥か?」
「はい」
セフェランが端を押すと、象牙のように白い書架が奥に動いた。
よく見ると、床に二本の細い溝が縦にある。
「ここは輝聖石を含んだ石材で造られたものです。魔力を注ぐと明るくなるのですが……」
「いや、ランタンで充分だ」
「わかりました」
微笑んだセフェランの指先に淡い光が浮かび、その光がランタンに淡く青い炎を灯した。
普通のランタンの光よりもだいぶ明るい。俺の目に見えたのは、その光に浮かんだ、やっぱり白くて天井が低く、幅も狭い空間だった。
「……やっぱり、こんな本の方が面白いよな」
「神使様の大切な日課に、祝詞があります。その日一日、ベグニオンの民が幸福であるようにとの祈りをこめて唄うのですが……。大切な時間ゆえに、必ず一人で行うのですよ」
「なるほどな。だから、ここか」
「はい」
そんな狭い空間の床に、小柄なベオクがようやく一人座れるほどの毛皮が敷かれていた。その上には丁寧にたたまれたひざ掛けと、横の箱にはいかにも若い娘が好んで読みそうな巷で有名な演劇の本、女性から絶大な支持を得たロマンティックな恋愛小説などが入っている。
わずかしかなかっただろう一人になれる時間に、娘たちはここでささやかな楽しみを覚えていたのかも知れない。
肩にのしかかる身分はその国で最高のものであるはずなのに、まるで奴隷だな。
………人のことは言えないかね。俺も。
「これらは先代の神使様のものです。私が見つけて、生前と同じようにここに置きました」
「そうか。……もう他の娘はここに入る必要もないだろうしな」
「はい。恐らく、いつかは忘れ去られるのでしょう。この隠し部屋のことも」
頷いたセフェランがそっと俺に手を伸ばす。どうやら、手を取れってことらしいな。
そんな女や子どものような扱いは必要ない。そう言おうとしたが、先に言われた。
「鴉王様のお心に、痛い思念もあるかも知れません。ですから、どうぞお手を」
……この有無を言わせねえ押しの強さは、やっぱり鷺だな。
肩を竦めて降参のポーズを取ると、俺は自分と同じぐらいのセフェランの手を取った。
もちろん、エスコートするのは俺の方だがね。
それでもセフェランの方に不満はないようで、俺の手を軽く握ると、そのまま歩き出した。
青白い光に照らされた先はまだ真っ暗だ。俺の夜目が利かないだけじゃなくて、思ったより距離があるんだな。
歩いたのは数分ぐらいか。途中でいくつか曲って、ようやく扉らしきものが見える。
思ったよりも大きい両開きの扉だった。表面に彫られてるのは百合の花か?
「こちらが、神使様たちの霊廟です」
「霊廟?」
「はい」
どういうことだ? 神使たちの個人的な隠し部屋じゃないのか?
セフェランは扉に触れず、手をかざして口の中で短く呪文を唱えた。
白い扉が柔らかな金を帯びた光に包まれて、音も立てずに内側へ開いてゆく。
「……!」
「大丈夫です」
開いた扉から流れ出てきたものが、なんだったのかはわからない。
風じゃない。空気は動いていない。
ただ、恐ろしく薄い紗に覆われて一瞬で取り払われたような……そんな感じがした。
「さあ、鴉王様」
セフェランに手を引かれて、石のように固まっていた俺の脚が動く。
そこは確かに霊廟だった。
思ったよりも天井が高い。ここも真っ白だ。
濃厚な水の匂いがして中をよく見ていると、セフェランがランタンを床に置いた瞬間、その炎が壁一面に広がったように部屋全体が淡く光を帯びた。
音の正体は、左右と正面の壁を流れる水だな。この部屋の中心部は、浅い堀に包まれたような造りになっていた。
どこから落ちてどこへ流れているのか、透明な水は浅い堀の水かさを増すことはないようだ。
棺は、中央にたった一つ。
やっぱり白い棺に淡い色の絹の布が幾重にも掛けられ、一番上にはまるでさっき摘まれたばかりのように朝露を含んだままの白い花が置かれていた。
「霊廟だというからてっきり神使たちのものだと思ったんだが、違うのか? あれは誰だ?」
不思議に思って訊くと、セフェランはまたあの鷺特有の感情を伺えない笑みを浮かべてそっと頷いた。
「確かに神使様たちです。ただ、一部だけですが」
「一部だけ?」
「祝詞を唱えるのに必要な喉の骨だけが、その棺に納められました」
「他は? 大神殿の墓じゃないのか?」
驚いてとっさに訊いたが、セフェランは答えなかった。答えられないのか、答えたくないのか、どちらにしても……。
「もう閉じ込められてないなら、魂だけは自由に……なれたかね?」
「はい」
思うように生きられない命なんて、ごまんとあるさ。
それでも、こんなのはあんまりだろう?
それ以上なにも言えずに棺に歩み寄ると、俺は上に被せられた薄い絹の布の上に手を置いた。
サナキの頭を撫でる時のように。
「なんだ?」
瞬間、俺の翼が広がった。意識してのことじゃない。
まるで風を受けた時のように、勝手に広がったんだ。
『………さま』
誰の声だ?
あの古い地図をめくった時にも聞いたかすかな声が、頭の中に直接響く。驚いてほとんど無意識に掴んだ布をめくると、思いがけないものがそこにあった。
「これは…鴉の羽か?」
「はい」
「このコインは……?」
一番下になった真っ白な布の上に、一枚の黒い風切り羽と、古ぼけたコインが置かれていた。
コインは前時代のものだ。混ぜ物が増えた今のものよりもずっと金の純度が高い。
間違いないな。鴉の羽だ。
それも、蒼い光沢がある。
もちろん俺のものじゃないし、かなり古い。
「かつて、神使様の一人が鴉の友人を得ました。人々が不吉と恐れるあなた方のその黒い翼を、美しいと……明日を待つ夜明け前の空の色だとたとえられたそうです」
「神使の友人に鴉がいたのか? いつの話だ?」
「私にも、はっきりとしたことはわかりません。ただ、その羽はあなたの翼と同じ色だと思いましたから」
「俺の父は蒼鴉じゃなかった。母上は蒼鴉だが、身体が弱かったしこんなところまで来られたとは思えない。この羽だけじゃ、誰のものかまではわからないな」
大きな羽をそっと置いて首を傾げると、セフェランは「そうですか」とだけ言ってそばに来た。
「もしかして、そのために俺を呼んだのか? だったら、すまないが……」
「いいえ。あなたなら、彼女たちの孤独を誰よりもわかってくださると思ったからです」
孤独、……ね。
それは、同じように隷属させられた立場の者としてという意味か?
それとも……。
答えはわからなかった。
わからなかったんだが、俺の同胞である鴉の誰かも、きっと同じようなことを思ってあんなに大きな風切り羽を残したんだろうな。
キルヴァス近辺の風は強い。風切り羽ってのは鳥にとっては一番大切な羽根の一つだ。帰るにもきっと苦労しただろうに。
中身はどろどろのぐちゃぐちゃでそりゃあもう醜悪なことこの上ないくせに、こんなに真っ白な中に放り出されてたんじゃ、俺たちの不吉な真っ黒い翼だってそりゃあ目にも優しかったろうよ。
そう言って笑おうとした口からは声は出なかった。ただ詰まるような息だけが漏れて、俺は慌てて花の上に落ちかけた涙を指先で受け止めた。
「あなたは優しい人です」
「戯言はよせ。厭味かね?」
「いいえ。本当のことですから。孤独を強いられ、望まぬ人生を生きて、それでも友を得られた娘は幸せでした。きっと、あなたのような鴉だったのでしょう」
「はン、どうだかね。神使を誘拐して大金せしめるつもりだったのかも知れないだろ」
「あなた方は決してそんなやり方はしませんよ。鴉たちの優しい心は、誰よりも私が知っています」
俺たち鴉の民は、ラグズの中でもニンゲンどもとの関わりが深かった。
だから、どんな成り行きでかは知らないが、神使に会えた鴉がいたとしても不思議じゃないな。
一度や二度会っただけじゃないはずだ。あの羽に残された想いや、伝わってきた声に、それだけのぬくもりがあった。
……馬鹿馬鹿しい。今も昔も貧しかったんだぞ? そんなことしてる暇があったら仕事の一つでも拾ってくるのが当たり前だったろうに。
「これ以上ここにいては彼女たちまで悲しませてしまいそうですね。戻りましょうか」
これ以上小さな棺を見ていたくない。
そう思って視線をそらした俺に自分の手巾を渡すと、セフェランは今来たばかりの道を戻り始めた。
聞こえるのは、かすかな足音だけだ。
あんななにもない場所で、訪れる者はセフェランだけか。そのセフェランでさえ、捨てようとした。
いや、こいつが捨てようとしたのは全ての「人」だったろうが……。
ここは、静か過ぎる。
そばを漂う気配だけは感じた。俺は幽霊なんか信じちゃいない。だからあるとすればこれは残留思念か。
鷺の血を継ぐ親無しなんだ。それぐらいのことができる魔力は持ってただろう。
だが、こんな時でも俺に触れる娘たちの心に怨嗟はなく、ただ気の遠くなるような孤独と寂しさと、最後には慰めに似た暖かなものが伝わって、余計に物悲しい気持ちにさせられた。
「どうもありがとうございました。……辛い思いをさせてしまいましたね」
「べつに辛くなんてない。どうして俺に見せたんだ? 俺が鴉王で、蒼鴉だからか?」
「はい。ですが、それだけが理由ではありません。本当の淋しさを知っている人は少ないものですよ。本当の孤独も。夜明けが必ず来るものだと知ってはいても、それが信じられない思いで眠る夜を越えた人にしかわからないことがありますから」
「そんなもの、知ってるからって偉いわけじゃない」
「その通りです」
ランタンの炎が消えて、書架の陰から部屋に戻ると、そこには変わらず穏やかな日常があった。
いつの間にかカーテンの隙間から入る光が赤い。……もう夕刻なんだな。
「そろそろサナキ様が待ちかねているでしょうね。鴉王様……」
「今度は子守か? そういや、あんたも元老院議員だったな」
手巾は使わずに投げ返したが、いつまでも乾ききらない目尻に苛立って厭味を言っても、セフェランはただいつものように穏やかに微笑んだだけだった。
くそッ、やっぱり鷺は鷺でも、こいつは違うサギだぜ。
テラスの向こうから賑やかな声が聞こえる。華奢な造りの室内履きをいつものブーツに履き替えて、俺は眩しい西日に目を細めながら大きなテラスに出た。
「鴉王! もう起きても良いのか!?」
「なんだ、まだ晩飯までは時間があるぜ」
真冬でも色褪せずに濃い緑の芝生の上で、ティバーンと遊んでいたらしいサナキが笑顔で立ち上がる。
タニスはもう帰ったらしいな。そばにいるのはシグルーンだけだ。
ばさり、と優しい風に挨拶するようにティバーンの大きな翼が動いた。
「鴉王、こっちに参れ!」
呼びつけているくせに、待ちきれないようにサナキが駆け寄って来た。
一応、皇帝の命令だからな。俺の足もそっちに向かってはいたんだが、サナキの方が速い。
「鳥翼王に聞いたぞ! そなた、大変な面倒ごとに巻き込まれておるそうではないか! どうしてそれを早く……ん? なんじゃ、元気がないのう? まだ具合が悪いのか?」
「ご心配なく。ちょっと日差しが眩しかっただけです。あと、問題ごとについてはまだなんと説明して良いか俺も困っておりまして」
「また敬語を使う! やめよと言ったはずじゃぞ!」
「どうも、癖でね。気をつけるさ」
「うむ、気をつけよ。これ、鳥翼王! 鴉王が眩しいと言うておる! そなた、無駄に大きいのじゃから日よけの役割ぐらいせぬか! まったく、気の利かぬ御仁じゃな」
「サナキ、さすがにそれは……」
とんでもないことを言い出したサナキに慌てて言い募ろうとしたが、その前に笑い出したティバーンがばさりとこちらに飛んできて一杯に翼を広げた。
おいおい、本当に日よけ役をする王がいてどうする!?
「気にするでないぞ、鴉王。今日はそなたの用心棒だと言うたのは他ならぬ鳥翼王じゃ」
「いや、しかしそれはあいつが言ってるだけで、俺は納得したわけでは……」
「良いのじゃ! 鳥翼王がしっかりしておれば、そなたも働き過ぎたりせず過ごせるじゃろうに。そなたはがんばりすぎじゃ」
理由があるんでな。
それは、サナキに言えないことだが。
何も言わずに黙った俺に小首を傾げて大きな目を瞬くと、サナキはごそごそと懐を探ってなにかを取り出した。
「鴉王」
なんだ? 屈めってことか?
小さな手にちょいちょいと呼ばれて片膝をつくと、サナキが俺の手を掴んで手のひらの上になにかを落とした。
なんだ? コイン……?
「どうじゃ、珍しかろう?」
これも、古ぼけたコインだ。だが、元は青銅のベグニオン硬貨を加工したものだな。その上に薄く金を塗って作った子ども騙しもいいところだが……。
もう一度近く寄れと俺を手招いたサナキがこそこそと耳打ちしてきて、このコインを俺に渡した理由がわかった。
「実はな、それはこの前タニスに連れて行かせた夜祭りの店で買うたものじゃ。そなたは大そうコインが好きだと聞いたから、せめて一度はほれ。給金を渡さねばならんじゃろう?」
今はセリノスの外交官になったが、その前には自分の部下だった。
一度、自分を連れて空を飛ばせた。その分だ。
得意そうに言われて、俺は一瞬どんな顔をすればいいのかわからなかった。
視界の端に、親衛隊隊長のシグルーンの顔が入る。
そうか。わかってるんだな。微笑んだまま唇に指を立てて「言うな」の仕草だ。
そうだな。これが偽物だなんて知ったらきっとがっかりする。
「いろんなコインが並んでいてのう。真新しいピカピカのコインの方が良いかと思うたが、古いものには古いものゆえの趣もあるそうじゃし、ほれ。このコインの裏に彫られているのはユクの花じゃ。そなたの好きな花であろう?」
「ああ、そうだ。覚えていたのか?」
ころりと手のひらで転がったコインの裏面に彫られているのは、確かにユクの花だ。
そう思って訊くと、サナキはぱっと辺りまで明るくしそうな笑顔で答えたのだった。
「覚えておるとも! シグルーンに会うまでの間、少し……そう、少しだけ落ち込んでいたわたしに、そなたが言うたではないか。ベグニオンの外れにユクの実がたくさん採れるところがある。その花は綺麗で、とても良い匂いがする。一番好きな花じゃと。そうそう、見たいとわたしが言ったら、そなたは『では、機会があったなら』と言うたではないか!」
まあ、最後に余計なことまで思い出して怒るのだけは勘弁願いたいが、確かに言った。
……一番好きな花だってくだりは、べそをかくサナキの気を引くのについでに付け足しただけの話だが、それは内緒だ。
「まったく、この分ではいつその機会が訪れることやら…! 鳥翼王、そなたが一番の原因なのじゃぞ!?」
「俺かよ!? へえへえ、気をつけますとも」
「口先だけではあるまいな!?」
「おお、コワ。おい、ネサラー! 俺が怒られるんだから、いい加減働き過ぎるなよ? わかってんのかあ!?」
サナキだけでも大変なのに、ティバーンまでいっしょに騒ぎ出したらたまらない。
肩を竦めて適当に相づちを打つと、俺はちっぽけなくせにやけに存在感のあるコインを握ってそっとサナキの頭に手を乗せた。
「ありがとう。大切にする」
「まったく、もう子どもではないと言うに……しょうのないやつめ。約束じゃぞ? 失くすでないぞ?」
「あぁ、もちろんだ」
ラグズとベオクの時の流れは違う。
まして印のないサナキはきっと、俺の見目が変わりもしないうちに老いて先に逝くんだろう。
だが、記憶だけじゃない。こうして形になる思い出が残るなら、きっとそれが俺の中に褪せないなにかを刻んでくれる。
そう思いながら俺は照れくさそうな、得意げなサナキの頭を撫でた。
我ながらなんとも感傷的だな。
……あんなものを見ちまったせいだろうが、情けない。
「皇帝」
「なんじゃ、鳥翼王?」
そう思いながら今度はシグルーンに取らせた花冠をサナキの手で頭に乗せられていると、いい加減日よけ役に飽きたらしい。
ティバーンがそばに降りて来た。
「どうやら、ちょっとばかり疲れさせちまったようなんでな。晩飯までまだあるなら休ませてえんだが、良いか?」
「あ…そ、そうか。そうじゃな」
「べつに疲れてない」
ティバーンに言われてサナキが残念そうに引くが、本当に俺は疲れてなんかいない。
そう思ってティバーンに言ったんだが、ティバーンは聞く耳持たずだ。強引に腕を掴まれて立たされた。
「では鳥翼王様、お夕食の準備ができましたら、お部屋まで伺いますわ」
「おう、そうしてくれ。行くぞ、ネサラ」
「おい…!」
どこまで強引なんだ!?
恭しく言ったシグルーンに頷くと、ティバーンはそのまま俺の腕を掴んで飛ぶ。
高くはない。三階の窓に届くかどうかだが、いきなりなんなんだ?
「なかなかいい客室だぜ。あれはおまえを迎えるためだろうな。窓が大きいし、椅子の背も俺たちの翼が邪魔にならねえように考えられてる。なにより、ほらよ」
「あれは……森か?」
「そうだ。セリノスほどじゃあねえが、窓から森と、あの見事な庭園とシエネの美しい町並みが見える場所だぜ」
ティバーンに連れられて降りたテラスは、三階だった。橙色がかった鮮やかな西日に照らされた町並みは、どこもかしこも金色を帯びた炎の色に染まっている。
「夜の庭も見事だってよ。俺たちは夜目が利かねえだろ? だから、少しでも不安がないように、なによりせっかく王宮にいるんだ。夜でも散歩が楽しめるよう、夜に光る花だの虫だのまでいるんだってよ。もっとも、残念だが今は季節が違うんでどちらも見えねえらしくてしょげてたがな」
「……一介の外交官相手に、皇帝ともあろう者がまったく」
なにをやってるんだ。
そう言いたかった。でも、言えなかった。
ティバーンに拭われるまでもない。なんだろうな。泣きたいような気分になったからだ。
「本当にお前を部下にしたかったんだろうさ。あのベグニオンの皇帝がだぜ? まあ、それだけおまえは優秀だってことだ。そこは自慢しとけ」
湿った指先でそのまま俺の前髪を梳いて、ティバーンはいつものように笑って、開けられたままの大きな窓から俺を部屋の中に入れた。
落ち着いた色調の部屋だ。
甘くて優しい香の匂いと、洗練された華美過ぎない調度品と……。この部屋に泊まる客人が心から安らげるようにと心を尽くしたのがわかる。
俺のためであって良いはずがない。この部屋は、もっと違う、価値のある者のために用意されてなきゃいけない。
このベグニオンで……苦しいばかりだったこの国で、居心地の良い部屋なんて、そんなものは欲しいなんて思ったことなかった。
そんなものがあるはずないんだ。だってそうだろう?
「ネサラ、知ってるか?」
なにをだ? 訊く前に、ティバーンの腕が俺を引き寄せた。
分厚くて逞しい胸元に頬を押し付けられる。
力強い心臓の音がした。
それに、相変わらず体温が高い。
居心地が悪くて身じろぐと、もっと強い力で抱きしめられた。
汗交じりの濃いティバーンの匂いがする。風呂に入れよ。眩暈がしそうだ。
……違う。本当に眩暈がする。
「鳥翼族の荷運びが森ではぐれたガキを見つけてくれたってんで、礼を言いたいと親が名乗り出たそうだぜ。あのベオクの貴族がだぞ?」
「森ではぐれたって……そんなところで子どもから目を離した親が一番悪いんじゃないのか?」
「そう言うな。十八になろうってガキだったそうだからよ」
………ベオクの十八歳はもう大人だと思っていたが、違う場合もあるらしいな。
呆れて黙っていると、それを察したらしいティバーンが笑って俺を抱きこんだまま、やけに大きなソファに腰を下ろした。
二人で座るどころか、ティバーンでさえ横になれるほどの広さだ。
「その花の冠はな、おまえに見せたいと言って皇帝の部屋を飾るための花を育てる温室からわざわざ摘んできたんだぜ。もうちょっと喜んでやれよ」
「花は摘まれるとすぐに枯れるだろ。喜べって言われてもな」
リアーネがいたら悲しい顔をするんじゃないか?
いや……それよりもあいつならサナキの気持ちを大事にするか。
「花はそこで咲くだけじゃねえ。誰かを飾るのもまた花の喜びってやつだ。ましておまえを飾れるなら、その花だって本望だろうさ」
「なにを馬鹿なことを。花の声が聞こえるわけじゃあるまいし、そういうことはリュシオンかそれこそリアーネに言え」
「本気だぜ?」
笑ったティバーンの唇が頭に触れた。
硝子張りの温室を持てるなんて、さすがは大国の皇帝だな。庭師もそんなわがままを言われてきっと困っただろう。
それでも、あの器用とはいえないサナキが一生懸命これを作っただろう姿を思うと、少しな。うれしいような気がする。
「どうした?」
「あんたは、暖かいな」
「なんだそりゃ。生きてるんだから当然だろ」
「そうだな。……当然だな」
笑おうとしたのに、やっぱり笑えなかった。
これは、同情なんかじゃない。
あんな淋しい場所で眠る娘たちを哀れに思うなんて、そんなのはただの思い上がりだ。
俺だって似たような死に様だったはずだ。
いや、違うな。
俺が死ぬ時は、きっとこの男の手に掛かってのことだったろう。
それは、たぶん幸せなことだ。あんな裏切りをしておいてこのティバーンの手に掛かって死ねるなんて、贅沢にもほどがある。
だが、あの娘たちは……。
「ネサラ?」
俺の感じた娘たちの遺した思いに、辛さはなかった。ただ痛みと、淋しさと……。
あれほどの孤独を抱えて死んで、それでも残ったのは後を継ぐ者への限りない労わりだった。
今の俺が幸せだから、こんなことを考えるんだ。
昔の俺だったら、ベグニオンの神使が辛い思いをして死んだからって、それがどうした?
きっとそう言ったはずなのに、自分でこんな自分に反吐が出そうで、苦しい。
頭からサナキの乗せた花冠が取られた。
もう一度無骨な指が俺の目尻を拭って、頭を大きな手にゆっくりと撫でられる。
今度は逆だな……。俺は撫でられてうれしいとか、くすぐったいとかは思わないが。
「俺はここにいるぜ」
なにを言ってるんだ。誰もそんなこと訊いちゃいない。
「ここにいる」
俯こうとした頬に厚くて硬い手のひらが触れる。眦に唇が触れた。それから瞼と……。
「おまえは外交官だ。この騒ぎが収まった後はどこの国に行ってもいい。でも、必ず帰って来い。帰ってきて、俺のそばにいろよ」
俺がここにいるとか、そばにいるとか……。
そんな当たり前の言葉じゃない。
だからこそ、ティバーンの気持ちが伝わった。
本当にお人好しだな。でも、それがこの男の一番らしい部分だろうよ。
俺の涙の理由も訊かずにただ慰めるだけのティバーンが可笑しい。
乾きかけた眦を舐められて、最後に唇が重なった。
かすかに感じる塩の味が照れくさい。
そのままきつく抱きしめられて、無意識に翼が隠れる。
当たり前のように背中を撫でた手に支えられてそのままソファに横たえられても、俺はただぼんやりとティバーンを見上げていた。
「隙だらけだぜ、ネサラ」
「…………」
「本気で喰っちまうぞ?」
俺が口を開く前にまた前髪をかき上げられて、額に唇が触れる。俺の心臓が跳ねた。
器用だな。胸元の金具を片手で外されて前を大きく開かれる。
シャツのボタンにも指が掛かった。さすがに止めようとした俺の手を掴んで手のひらに口付けると、ティバーンはそのまま俺の首に顔を埋めて強引にボタンを外した。
「おい…」
唇が首筋を伝って耳まで滑る。開かれた胸元にひたっと手のひらを置かれて、さすがに落ち着かない気分になった。
ティバーンの鼻息が髪の中にかかってくすぐったい。ぞわぞわと背筋を上るむず痒いような感覚が耐えられなくて身体を捩ろうとしても、ティバーンが重くてどうにもならなかった。
「凄えな。おまえの心臓が壊れちまいそうだ」
「そう思うんだったらどけ。重い」
「どいて欲しいのか?」
からかい混じりだった声が、急に低くなる。
驚いて目を瞬くと、ティバーンもゆっくり上体を起こして俺を見下ろした。
俺を映す金褐色の目に沈みかけた太陽の光が入って、まるで黄金のような色になっている。
笑ってるが、冗談で流せる雰囲気じゃないことは俺にだってわかる。
猛禽に捕まった。そんな気がした。
「目を閉じな」
「いやだね」
「閉じろよ」
「いやだ」
しょうがねえなあ。ため息のような声が聞こえた刹那、大きな手に目を塞がれた。
酷い話だ。俺が閉じなかったら無理やり目を塞ぐのか?
すぐにぬくもりが重なる。唇といっしょに。
なんで口付けなんか許してるんだ、俺は……。
それも、一度や二度だけじゃない。こう何回も。
くそ、ティバーンが強引過ぎるからだ。でなきゃこんなこと……。
「!」
触れただけだった唇の表面にさわりとティバーンの舌が触れて、びくりと肩が震える。
「ネサラ。口、開けろ」
いやだ。言う前に首を振ったが、ティバーンはしつこい。
「開けろよ。ちょっと口ン中を舐めるだけだろ」
「そんなこと言われて開けるヤツがいると思うか? 第一、汚いだろ」
「おまえなあ。口ン中舐められるぐらいで汚いなんて言ってたら、後で大変だぜ? さてはこんな時にどこをどうしてどうするか、ちっともわかってねえな?」
「………最低だな」
「馬鹿言え。そうしねえ男は甲斐性なしだ。大事なことなんだぜ?」
「俺には必要ない」
馬鹿馬鹿しい。こうなるまで抵抗できなかったのはなにかの気の迷いだ。
そっぽを向いて重い身体を押しのけようと思ったが、それよりもティバーンに顎を掴まれる方が早かった。
「表面だけなら怖くねえだろ?」
「しつこい…!」
「おまえを泣かせたままじゃあ、俺が辛抱できねえ」
そう言って今度こそ強引に奪われて、俺は息まで飲み込む羽目になった。
あぁクソ、最低だ…!
死の静寂しかない神使たちの霊廟を出て、確かに俺はティバーンに惹きつけられた。
でもそれは単純にこの男の持つ垂れ流しの命の輝きみたいなものに引き寄せられただけで、決してこんなことをしたい訳じゃない。
また唇の表面に舌が触れる。嫌なはずなのに逃げたがるのは気持ちだけで、もう涙も出なかった。
「ぅ…っ」
顎を掴んでいた手が後頭部に回る。さわりと髪の中に指がもぐりこんで、くぐもった息が漏れた。
その瞬間、ティバーンの舌が滑り込んできた。俺の中に。
驚いて噛み付きかけた顎が止まる。噛み切ったらティバーンが死ぬ。まさかここで俺が鳥翼王を殺すなんて、できっこないだろ!
ぬるついた舌に口の中をさまよわれてぞわぞわした。
こんなことされてたら唾液が飲み込めない。俺が溺れたらどうするんだ?
固まってたらたらりと唾液がよだれになって口の端から流れかけて、俺は半ば溺れたように無理に喉の奥に押し込んだ。
そこでようやく気がついたらしいティバーンが喉の奥で笑って少しだけ離れる。
近すぎる男っぽい顔を睨みながらこくりと音を立てて飲み込むと、ティバーンが濡れた俺の唇を親指の腹で撫でて言いやがった。
「どうしても厭だったら俺の背中を叩け。本気でな。唾なんか気にすんな。俺が飲んでやるから」
「き、汚いッ!」
「お前だって今飲んだろ?」
「そんな問題じゃな…ッ」
今度こそ呆れた。
突き飛ばそうとしても腕に力が入らない。まるで俺がティバーンの匂いに酔ったみたいだ。
もう一度唇が合わさって、今度はいきなり舌を入れられた。
やわやわとまさぐってくる舌がこそばゆい。熱いものや冷たいものが入る場所なのに、こんなに口の中の感覚が敏感なのが不思議なぐらいだ。
ティバーンと俺の間で固まってた腕が強引に広い背中に回されて、もっと身体が密着した。
ほとんどむき出しになった胸元が触れ合う。素肌が触れ合った部分が火のように熱い。ティバーンのつけた羽根飾りがくすぐったくて身を捩りかけたら、まるで許さないと言わんばかりに俺を抱きしめた逞しい腕に力がこもった。
混ざり合った唾液が本当にティバーンに奪われる。息が苦しくなって広い背中を叩こうとした手はいつの間にか縋るように自分からティバーンを引き寄せていて、思わず立てた爪が厚手の生地を引っかいた。
いよいよ不味い。朦朧としてきた。
耳に入る濡れた音が聞き苦しい。
人工呼吸でもするように時々空気をもらいながらの不毛な口付けは長かった。
時間の感覚もなくなりそうなほどに。
それでも多少なりと正気を取り戻せたのは、ティバーンにいつの間にかむき出しにされていた腹に触られたからだ。
「……あ……」
今までとは違うくすぐったさに、湿った声が漏れた。
「気持ち良いか?」
「そんな…こと、あるか……っ」
「訊くなって?」
ぐい、とティバーンの膝に脚を割られる。驚いて逃げかけた身体が押さえ込まれた。
皇帝との夕食を控えてるんだ。まさか無茶なことはしないとは思ったが、今のティバーンが危険なことだけはわかる。
戸惑ってティバーンを見ると、笑ったティバーンが軽く口付けて、俺の腰骨を掴んだ。
「ふ…ぅっ!」
ただ捕まれただけだ。それなのに、シャツを剥かれて直接肌を掴まれてるってだけで驚くほど皮膚の感覚が敏感になっていた。
背中から弓なりにしなって浮いた腰をますます強く掴まれる。
不味い。
腰の奥から、じわじわと炙られるような感覚がしてきた。
俺だってもう雛じゃない。それがなにかってことぐらいはわかる。
「いやだ……」
顔が熱い。背中に立てた爪に無意識に力をこめながら訴えると、ティバーンの匂いがもっと強くなった。
本当に、不味い。眩暈が強くなって……。
「いやだ…!」
顔を見られたくない。
幸いというのか、辺りはもう暗くなっていた。
ティバーンの手は柔らかくなんかない。ごつごつしてるし、指や手のひらだって固いし、それなのにそんな手がさわさわと肌の上を這うのが気持ち良いなんてありっこないんだ。
雛のころ、風呂でニアルチに洗われるのが好きだった。
あのもうろくジジイは未だに俺を洗いたがるが、――まあ、今でも時々は親孝行のような気持ちで手伝わせるが――これはあのころ触られるのが気持ち良かったのとはまた違う感覚で、戸惑いが先にくる。
「なあネサラ、どこを触られたい?」
「知るか、バカ鷹…!」
「ひでえ言われようだな。言えばどこだって触ってやるのによ。それとも、しゃぶられる方が良いか?」
「なにを言って……」
かすれた声で、からかうように言ったティバーンが忙しない息をする俺の首に口付けて、そろりと舌を這わせ出した。
こっちはさっきからの刺激で汗をかいてるんだ。こんなことをされたくない。
それでもはねのける腕にはどうにも力が入らなくて、それが自分でも情けなかった。
「い…!」
不意打ちだ。チクリと痛みが走った。なんだ? 噛まれたのか?
痛みに竦んだ瞬間そこをそっと舐められて、今度は震える息が漏れた。
大腿まで撫でられる。脚の付け根に指先が触れてぞくりとした。
今度はそこからティバーンの手が離れない。
肩口に微かに歯が当たって、緊張したのは一瞬だ。
腰を中心に動いていた手が確かな意志を持って下穿きに掛かり、下まで脱がそうとしてることに気がついて俺は総毛立った。
俺だって自分で自分の状態はわかってる。ティバーンがどうするつもりか察しただけでそこの重苦しさが増した事実にうろたえて、俺はそんな自分に一番驚いた。
「ティバーン、もうやめろ」
自分でも驚くほど弱った声が漏れて、ティバーンの手が止まる。
これ以上のことは無理だ。引き返せなくなる。
そうなったらもう俺は、この男の……違うな。セリノスの外交官でさえいられなくなるかも知れない。
だが、ここでティバーンが諦めるかどうかまでは自信がなかった。
諦めなけりゃ、少々怪我をさせることになっても本気で疾風の刃を放つまでだ。
そう覚悟を決めてどうにも力の入らない腕で重い身体を押しのけようとすると、ティバーンは思ったよりも素直に身を起こした。
俺を見る金褐色の目はきっと怒っているだろうと思ったが、意外なことにそれはなかった。
「さすがにここまできてから出しもしねえってのは、辛くねえか?」
「必要ない。放っておいてくれ」
「いや、そりゃおまえが自分でするってならそれでいいが、その、ほら、アレだ。男の生理ってのがあるからよ」
「そんなこと、どうでもいい!」
ソファの上で限界はあるが、今度こそティバーンから離れると、俺は自分を抱くように小さくなって翼を出した。
これ以上なに一つこの男に見られたくない。
なんだ? 俺は、どうした?
みっともなくはだけた服を整えようにも震える指先が言うことをきかなくて、焦れた俺は唸るような声を出して自分の膝の上で頭を抱えた。
動悸が収まらない。頬と耳が熱い。自分の身体が燃えちまいそうだ……!
「ネサラ?」
「触るな。今度俺に触ったら、二度とあんたの顔なんか見ない」
「そりゃまた過激だな」
だから、どうしてそこで笑ってられるんだ!?
「なんだよ、恥ずかしいのか?」
違うとは言えない。
こんなこと、恥ずかしくないヤツなんかいるのか?
今度は違う理由で泣きそうだ。まったく、誓約から自由になったとたん、感情のコントロールができなくなったというか……。
無様なことこのうえない。
「放っておいてくれたら落ち着くんだ。だから触るな」
「俺はもっと全身くまなく触りてえんだが」
「俺は触られたくない」
これじゃまるで俺がただの若造みたいじゃないか。
多少の歳の差があるとは言え、本来は対等だったはずのティバーンにガキ扱いされるのは気分が悪い。
そう思ってなんとか息を整えていると、ふと外の気配を感じた。
なんだ? 騒いでる…ってほどじゃないが、なにかあったのか?
「なあ、ネサラ。おまえ、凄い格好してるぜ? 手伝ってやるから、せめて服は整えろよ」
「構うなと言ってる」
「もう本当になにもしねえって」
「信用できないね。そんなこといい。おい、ティバーン!」
どうやら正気に戻ったらしいな。いつもの調子で俺のシャツに手を掛けたティバーンに呆れながら身を捩ると、俺は枕にできるほどの肘掛に手をついて軽く身体を起こした。
懲りずに脱がせようとしてきたなら今度こそ殴り倒すところだが、どうやら真面目にボタンをかける気になったらしいな。
ただ、一つかけただけで宥めるように背中を撫でやがるのは腹の立つところだが、それよりも妙な胸騒ぎがする。
「落ち着いたか?」
「それはあんただろうが。それより、外がなんだか騒がしくないか?」
「あ? ……あぁ、卵が足りねえとかって騒いでるヤツがいるな。料理人たちがうろついてるみたいだぜ。晩飯の仕度が大変なんじゃねえのか?」
俺より少し耳の良いティバーンののん気な言葉をそのまま信じて良いのか一瞬迷う。
動悸がするのはさっきの熱がまだ残ってるせいだと言えなくもないが……。
「ネサラ? すまん。驚かせ過ぎたか?」
なにかおかしい。なにもないはずなのに、さっきから感じるこの圧迫感は……。
胸を押さえて小さくなった俺に慌てたティバーンに肩を抱かれて、俺はこみ上げる気分の悪さに口元を押さえた。
なんだ? 吐きそうだ。
この感覚は、知ってる。
「おい、ネサラ?」
「は、吐きたい」
「ちょっと待ってろ」
ムカムカする。
あぁ、そうだ。これは……あいつらに、鳥籠の中に突っ込まれて、監視された時と同じ……!?
ティバーンが掴んだ花瓶を寄越すのが間に合わなくて、床に落ちて割れる。
こみ上げたものをティバーンがとっさに宛てがってくれた赤い腰帯に吐き出しながら、俺は身体をくの字に曲げて襲い掛かってきた悪寒に耐えた。
「おまえは手を使うな。手が汚れちまったら匂いでまた気分が悪くなるぞ」
苦しくて半ば縋るようになった俺に服まで汚されても文句も言わないのは、大したもんだ。
もっとも、こっちは礼を言う余裕もないんだが。
口元に腰帯を宛てがわれたまま片腕で手洗い用の桶のあるところまで連れて行かれて、俺は胃の腑が捩れるような感覚にしばらく苦しめられた。
へたり込んで背中を撫でられながら口元を自分の手巾で拭うと、俺はそのまましばらく立ち上がることもできなかった。
「水を飲むか? 飲めなくても口をすすぐだけで少しは楽になるぜ」
こんな時に介抱する相手が落ち着いてるってのは心強いものだな。まあ、ティバーンの場合は酔っ払いの相手に慣れてるだけだろうが。
こくりと頷くと、ティバーンが「よし」と背中を叩いて少し離れ、棚の水差しを取ってくる。
グラスに注がれた水で軽く口をすすぐと、ティバーンも残った水で自分の手を洗った。
そうか。俺が汚したからだな。
「……あんたに汚れ仕事をさせた。すまない」
「馬鹿言え。こんなこと、汚れ仕事の内に入るかよ」
「でも、服まで汚しちまっただろ」
「気にすんな。こんなもん、洗えばいい話だ」
そんな問題じゃない気がするんだが、まあ本人がいいと言ってるならこれ以上は議論することもないか。
なにより、身体が重い。さっきまでの熱なんてとっくにどこかに消えたほどだ。
だが、震える息をついて、もう一度、今度は自分で水を飲もうと水差しを掴んだ時だった。
銀の水差しが唐突に黒く代わり、まだ傾けてもいないのに小さな注ぎ口からいきなり水が溢れたんだ。
「……ッ!!」
透明なものじゃない。まるで深い沼のように濁った水がたるんだ太い男の腕に変わって俺に向かって伸びる。
なんだ、これは!?
息を呑んだ俺の代わりにティバーンが水差しを叩き落とした瞬間、今度は目の前に白金に輝く光の玉が現れた。
「ネサラ、よせ!」
その正体がなにかなんて、考える余裕もなかった。その光から現れたのがセフェランだとわかる前に、ティバーンの制止も間に合わず俺の翼に込められた疾風の刃の魔力が僧服の黒鷺に襲い掛かかったが、かすり傷一つつきはしない。
それどころか自分を庇おうとしたティバーンと自分を殺しかけた俺を見て微笑むと、毛足の長い絨毯に落ちてもがく男の腕の形をした水を一瞥し、短く呪文を唱えた。
光の呪文だ。
それだけで聖なる白い光が雲を割る太陽の光のようにその腕を差し、濁っていた水が瞬く間に透明になって砕け散る。
後には何も残らなかった。まるでこんなことは最初からなかったように。
「あんた、怪我は……?」
そんなものない。わかってはいたが、訊かずにはいられなかった。
そんな俺にまた微笑むと、セフェランは厳しい顔をしたティバーンにも笑いかけ、言ったのだった。
それもとんでもないことを。
「申し訳ありません。邪な気配がここに辿りついたことはわかったのですが、出てくるのが遅れました」
「外の騒ぎか?」
「いいえ。お邪魔をしてはいけないと思いましたので」
「邪魔って……」
「秘め事を邪魔するなんて、失礼なことでしょう?」
さすがに、俺にも意味が分かった。
な、なんで知ってるんだ!?
「おいおい、覗き見かよ。油断も隙もねえな」
あんなことをしているところを他人に……!
あまりの羞恥に消えたくなった俺のかわりにティバーンが不機嫌な声で言うが、セフェランにはこれっぽっちも堪えた様子はなかった。
それどころか、浮かべた笑みを深くしてこの言いようだ。
「覗くつもりはありませんでした。ただ、こちらに転移魔法を使おうとしたところで中の様子がわかりましたので、遠慮したのです。あなたはともかく、鴉王様は他人の前でそういった行為ができるような神経はしてなさそうですから」
「俺はともかくってなんだよ!? 俺は露出狂じゃねえぞ!?」
「そうは言っていません。ですが、それが絶好の機会と見たなら、止めることはないでしょう?」
「あ? あぁ、まあそりゃー…そうか?」
「俺に訊くな!!」
セフェランから漂う清浄な森の空気を感じたからか、胸の悪さはずいぶんましになっていた。
鷺じゃあるまいし、俺も貧弱な……。
いや、違うか? セフェランから漂う癒しの気の効果かも知れないな。デインの巫女がこいつの子孫だってのも今さら納得がいった。
巫女と同じ部隊で戦ってる時に、一、二度噂の「癒しの手」を使われたが、あの時と似たような感じがする。
「あ…いけません。私は噴水に行きます」
「サナキが危ないのか?」
「はい。…いえ、危ないというほどのことはありませんが。お二人はどうぞ休んでいてください」
慌しいな。止める間もなくセフェランの身体があの白金の光に包まれて掻き消えた。
「どうするよ? おまえは寝てるか?」
「誰に訊いてる? あんたは着替えでもしてろ。そんな匂いをさせて抱きつかれでもしたら、また気分が悪くなる」
それが自分のせいだってのはこの際棚上げだ。俺の答えなんて知ってるくせに、にやりと訊くティバーンを振り返りもせずに窓辺に飛ぶと、俺は広いテラスに出て辺りを伺った。
やっぱりな。急に音がはっきりした。
いつの間にかあの胸くその悪い魔力に部屋ごと包まれていたんだな。
まあ、セフェランが来てくれて浄化はされたから、それだけは良かったが。
「どうやら、奴さんらしいぜ。大丈夫か?」
「勘違いするな。俺は、べつに逃げたいわけじゃない」
言われなくてもわかってる。舞い降りた先に、城壁のかがり火に照らされた醜いルカンの姿があった。
それに対峙していたのはシグルーンとサナキだ。
「二人だけか? 兵は?」
「サナキ様がいち早く邪悪な気配を感じられましたので、人払いをいたしました。あのような小物如き、悪戯に兵を不安がらせる必要もありません。私だけでも充分なぐらいですわ」
「そうじゃとも。第一に、わたしがおる!」
衛兵の姿があるかと思ったが、さすがだな。細身の銀槍を携えた美しい親衛隊長は毅然と微笑み、なぜかサナキまで胸を張る。
その二人と、部屋の窓の陰から怯えながら様子を伺う召使いと騎士見習いらしき娘を守れる位置に、セフェランも立っていた。
『カラス…王……!』
それまで濁った魔道の光に包まれてサナキを見ていたルカンの目が、ぎょろりと俺に向けられた。
「相変わらずご執心いただけて、もしかして俺は感謝しなけりゃならないのかね?」
いわば、最後の手駒だった俺に手酷く裏切られたんだ。恨みを買うのも仕方がないな。
そう思って頭を掻くと、むっとしたサナキが音がしそうな勢いで俺を見上げて言った。
「あのような輩に感謝などするでない! あやつがそなたらにしたこと、そなたが赦そうとも、わたしは赦さぬぞ!!」
「おう、俺もだ。サナキ、もっと言ってやれ」
「お、おい! あんた、なんて格好で…!」
サナキの言葉にふと後ろを見ると、ティバーンの奴はなんと上半身裸で立っていやがった。
「着替える間がなかったんだよ。しょうがねえだろ」
「だったら出て来るな!」
「そんなわけに行くか。あの野郎にムカついてんのはおまえだけじゃねえんだぞ」
ラグズの王がだらしないと思われるのだけはごめんだ。
慌てて上着を脱いで肩から着せようとしたんだが、ティバーンは俺の上着に袖も通さずに後ろに投げ、俺の横に降り立った。
『カラス王…貴様、よくも…よくもこのわしを裏切りおったな…!!』
「闇魔法じゃ!」
狙われてるのが俺だけなら、話は早いか。
なるほど。さっきの騒ぎは噴水が止まったからなんだな。
物陰に隠れた作業員らしい男の息を呑む声を聞きながら、俺は軽く空に浮かんでサナキとティバーンとは逆の方に降りた。こっちの後ろは誰もいない。俺が魔法をかわしても城壁だけだからな。
「……なんでついてくるんだ?」
「俺だけだと思うか?」
「鴉王! これ、一人になるでない! 危ないではないか!!」
「サナキ様…!」
あ、頭が痛い。
なんでサナキとシグルーンまでこっちに来るんだ……!?
冗談じゃなく頭を抱えた俺の肩を笑って叩いたティバーンの大きな翼が一瞬緑に輝き、俺たちの足の下から湧き上がった黒い闇魔法の魔力を打ち消す。
やれやれ。なんだか、ルカン相手にいつまでも恐怖心を引きずる自分がなんだか馬鹿馬鹿しく思えてくるな。
どちらにしろ、片はつけなきゃならない。もちろん、俺自身の手で。
「ネサラ」
俺を励ますように光を帯びた王者の腕輪を撫で、化身しようとした俺をティバーンが止めた。
なんだ? 理由を問う前に、ティバーンの金褐色の視線が俺たちに追いついたサナキに向く。
「これまでじゃ! もう二度と迷い出て来ぬよう、わたしが今一度そなたを塵に還してくれよう!」
低く唸ったルカンが錆びた鉄杖を振りかざすと、白銀に輝く槍を携えたシグルーンがすかさず二人の間に立ちはだかる。
サナキの小さな身体から聖なる光が溢れた。
……光呪文はそれほど得意じゃないと言っていたのに、いつの間にここまで腕を上げたんだ?
『こ、小娘が、邪魔ばかりしおって…! くらえ!!』
「そなた如きの小手先の闇魔法など、効きはせぬわ!!」
ルカンの鉄杖から噴き出した黒い魔力がサナキを覆うが、それはサナキが放った光魔法に打ち消された。
俺はひやりとしたが、シグルーンもセフェランもぴくりとも動かない。
サナキの魔道の力量を正確に知ってるってことか。さすがというべきかも知れないな。
『く、くそ……!』
己の周りにいくつも浮かんで漂いはじめた小さな光の玉を恐れるように身を引いたルカンがもう一度呪文を唱え始めるが、サナキの方が早い。
滑らかに古代語の呪文を詠み上げ、ついに噴水から足を踏み出したルカンが光に包まれた。
『おおお…!!』
苦し紛れにサナキに投げつけた鉄杖は、シグルーンが弾き飛ばす。
眩しい。
目がやられそうな光に堪らず顔を背けたティバーンの代わりにどうにか見すえた先で、光の中のルカンが膝をついたのが見えた。
「まだじゃ! この程度で終わると思うな!!」
続けてサナキの口から出たのはあの戦いの中で幾度も聞いた呪文だ。シムベリン……。サナキが一番得意な炎の呪文だな。
金の光を帯びた太陽そのもののような炎の玉がもがくルカンの頭上に浮かび、それが落ちる。おぞましい悲鳴が響いた。匂いがないのは幸いだな。
……待てよ。元が水だから、蒸発するだけか?
「これ、鴉王! 近づくでない!」
ほとんど無意識だった。
光が消え、炎が消え……芝生もやられたんだな。そこだけが土がむき出しになり、しゅうしゅうと音を立てて上がる水蒸気の中に崩れたルカンの姿はもう、ぼろぼろだった。
白かった僧服も、脂の良く乗っていた皮膚も。もっとも、再会してからは薄汚れていたし、顔色も死人そのものだったが。
『……わしのものだ。貴様は…永劫にわしの……』
「違うね。俺はもう俺自身のものですらない。それに、あんたのこともすぐに忘れるさ。こう見えても毎日忙しいんでね」
『半獣の…王如きが……!』
「もう王じゃない」
俺を掴もうとしたルカンの腕が崩れ落ち、煮えたぎるような目で俺を見ていたルカンの顔にもひびが入る。
『カラス王……!』
「あんたがなぜここに入り込めたのか、気にはなるところだが訊く時間もないみたいだな。ガドゥス公、これで永遠にお別れだ」
『待て! 赦さぬ、赦さぬぞ、わしは…!』
「あばよ」
俺には絶対にできないと思っていた。
俺がしなくても、シグルーンやサナキ、あるいはティバーンがやったことだろう。
だが、俺がするべきだ。
そう思ったから俺は立ち上がって翼を広げ、ありったけのものをこめてぼろぼろのルカンに疾風の刃を叩きつけた。
声にならない断末魔の叫びとともに、濁った水しぶきが散る。
その水しぶきが消える前に俺ごと光に包まれた。
セフェランの使う光魔法だ。いっそこのまま灼かれちまってもいいような気分でいたけれど、セフェランの放った光魔法は蒼い光の揺れる俺の肌の表面でチリチリと弾けて消えただけだった。
ルカンの方は……欠片も残らなかったみたいだな。
「ネサラ!」
「なんともない。騒ぐな」
「無茶なことをしますね。怪我はありませんか?」
「どうやら、ないね」
文字通り飛んできたティバーンをそっけなくかわすと、今度はセフェランまで寄ってきやがった。
「……それは?」
「ガドゥス公の指輪です。これを憑代にしたようですね」
「あぁ、あの色んな宝石がゴテゴテついた悪趣味なヤツか」
「詳しいな」
「その中の石の一つは、俺がどこぞの神殿からかっぱらわされたヤツだ。そりゃ、覚えてるさ」
さして興味もなかったからそう言ったんだが、俺の台詞に飛び上がったのはサナキだった。
「なんと! ラトネ神殿のご神体である宝石を盗んだのはそなたであったか!」
「まあ、サナキ様、お声が大きいですわ」
「なんだそりゃ。ネサラ、おまえ、そんな大事なモンかっぱらったのか?」
「……あの頃は元老院の命令に逆らえなかったんだ。仕方ないだろ」
しおらしく言うと、サナキは「確かにそうじゃったな」と心から同情した目で俺を見上げ、ティバーンも「その分の責任は俺が取る」なんて言ってやがる。
この馬鹿、ただの「鷹王」の時代なら喜んで被せてやるが、今は俺の王でもあるんだ。そんなことを言ってセリノスの懐から弁償を申し出られたら困る。
そう思ったところでサナキが毅然と顔を上げて言った。
「なに、ご神体などと形がなくば保てぬ信仰心などしょせんその程度じゃ。わたしたちはもう、神に祈るよりも己でやり遂げなければならぬことを知っている。鴉王、もう気にせずとも良い。元老院の犯した罪はわたしの、そしてベグニオンの罪なのだからな」
シグルーンは感動いっぱいの目でサナキを見ているが、俺は素直に感動できない。
実際にはその時ついでにいろいろと金目のものを失敬したんでね。だがまあ、それはあの神殿の大神官が私腹を肥やしてこっそり集めたものだし、この際無視しておくとしよう。
「サナキ、あんた個人がガドゥス公の罪まで被る必要はないが、そう思うならこのことは聞かなかったことにしてくれると有難いな」
「うむ、もちろんじゃ!」
ただ、あの中からいくつか売った相手はあのタナス公オリヴァーだ。バレたら不味いような気もするが、とりあえず証拠はない。いざとなったらばっくれるとしよう。
小さな手に力強く手を握られてぶんぶんと振り回されながら、俺はセフェランの持つ指輪を見てみた。
やっぱり煤けてはいるが、手巾で磨いたあとを見ると、一つだけ輝きを失っていない宝石がある。青白い一際大きなあの宝石が、俺がラトネ神殿から盗んだものだった。
どうやら、ご神体にするだけの理由のある品だったらしいな。
「セフェラン、その石は? 俺の知ってる宝石とは種類が違うようだが」
「これは輝聖石の純粋な結晶です。一般には月の石という名称で呼ばれていますね。色は違いますが、あなた方の持つ王者の腕輪についた守護石もこの輝聖石の一種ですよ」
月の光が結晶になったとも呼ばれるあの石か……。精霊たちの力の源だとも言われていたな。
なるほど。それなら、魔力を増幅させる力を持っていても不思議じゃない。
「鴉王様、あなたでしたら相性も悪くないでしょう。浄化してからになりますが、魔法に対する抵抗力も上がります。あなたの指輪にしたらいかがですか?」
「断る。そんなもん、俺がこいつにつけさせたくねえ」
俺も断ろうと思ったんだが、ティバーンの方が早かった。
まったく、どこまでも暑苦しいことだぜ。
「そうですか。鴉王様のお気持ちも変わりませんか?」
「……ああ。なにより、神殿にあったものなんだから、神殿に返してやるべきだろ。その方が俺も胸のつかえが降りる」
「うむ、ならばそうするが良い。セフェラン、その『浄化』とやらはどうすれば良いのじゃ?」
こくこくと頷いたサナキに微笑むと、セフェランは手のひらの上で頼りなく光る輝聖石に視線を落として答えた。
「後ほどセリノスに届けます。鷺の呪歌が一番確実ですから」
「わかった。連絡しておこう」
大事な仕事だ。あんな男が身につけていたものだと思えばあまり触らせたくないが、今ならラフィエルもロライゼ様もいる。留守番しているリアーネに任せれば喜ぶかも知れないからな。
「話が決まったなら良かった。さあ、鴉王、そろそろ部屋に入ろうぞ。そのような薄着でこれ以上外にいて、そなたが風邪をひいてしまってはいかん」
「サナキ様、どうぞこちらに……」
いつの間にか日が落ちて、かがり火があっても俺の目ではもうサナキの顔色までは見えない。
だが、本当に寒いのはサナキ本人だということぐらいは声の調子でわかった。
もちろん、そんなことを指摘するときっと機嫌を損ねるから、俺はなにも言わずにティバーンが投げ捨てた俺の上着を取り、サナキの頭から被せた。
「な、なんじゃ!?」
「俺たちにはどうということのない気温だが、ベオクの身体じゃ寒いんだろう。気がつかなくてすまなかったな」
「そ、そうではなくじゃな、幼子ではあるまいし、わたしは自分の足で歩ける!」
「俺の上着を被ると引きずるだろう。急なことで着替えもないし、一張羅なんでね。すまないが部屋の中までは我慢してくれ。幸い俺はラグズだ。こんなことでつまらん想像をする輩もいないだろう」
大きくなったと思ったが、やっぱりまだ子どもなんだな。この姿じゃ大して腕力のない俺でも苦労なく抱えられる。
サナキはしばらく暴れたが、俺が下ろさないことを悟ったのだろう。
すぐにおとなしくなって、しみじみと俺の翼を撫ではじめた。
「なんだ?」
「そなたが傷を負わなんで良かった。鳥翼王がそなたをこきつかうのは今でも面白くないが、強いそなたの王が、もっと強い鳥翼王なのは良かった。ラグズの王は民を守る。ならば鳥翼王はきっとそなたを守ってくれるじゃろうからな」
「……一応言っておくが、戦い方を考えれば俺はティバーンにだって勝てるんだぜ?」
「ほう、それならばもっと安心じゃのう!」
だから、どうして俺がティバーンに守られなきゃならないんだ。
サナキに言われた台詞が面白くなくて憮然と言い返したんだが、サナキはいっそうご機嫌になっただけだった。
「あ…噴水が」
「ルカンの魔力が完全に消えたんだろ。あんたとセフェランの光魔法で穢された水が清められたんじゃないか?」
「そうか……。このまま、もう何事もなければ良いのじゃが」
それは、無理だろうな。
俺のシャツを握ったサナキの小さな手にそっと力がこもる。
平気そうな顔をしているが、きっと怖かっただろうよ。自分が葬ったはずの大罪人があんな形で目の前に舞い戻っちゃあな。
……この細い肩に負うものの重さと大きさを考えると、これ以上この娘にまで余計な面倒ごとはかけたくない。
「あんたは大丈夫だったか?」
「はい。私はただ見ていただけですわ。お二人には後ほど着替えをお持ちします。夕食の前に、どうぞお召し替えなさってくださいませ」
「そうだな。そうさせてもらおう」
隊長の姿を見てすかさず膝をついた若い騎士見習いらしい娘に槍を渡すと、シグルーンはようやく落ち着いたらしい表情の召使いにあれこれと言いつけ、自分の白いマントを外して俺の上着の上からサナキに掛けた。
|
|